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山口地方裁判所下関支部 平成6年(ワ)51号 判決 1998年4月27日

主文

一  被告は、原告甲花子、同乙松子、同丙竹子に対し、各金三〇万円及びこれに対する平成八年九月一日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  前項記載の原告らのその余の請求及びその余の原告らの請求を全部棄却する。

三  訴訟費用は、一項記載の原告らと被告との間においては、同原告らについて生じた費用を三分し、その一を同原告らの負担、その二を被告の負担とし、被告について生じた費用は全部被告の負担とし、その余の原告らと被告との間においては、全部同原告らの負担とする。

理由

第一  はじめに

一  本件は、主として、いわゆる従軍慰安婦、あるいは朝鮮人女子勤労挺身隊員であった原告らが、帝国日本の侵略戦争と旧朝鮮に対する植民地支配によって被ったとする被害につき、戦後補償の一環として、被告に対し、公式謝罪及び損害賠償を求めた事案である。

二  そこで、まず、従軍慰安婦及び朝鮮人女子勤労挺身隊制度の実態と原告らの被害事実とを概観した上、原告らの法律上の主張につき検討を加えることとする。

なお、原告らは、別紙一の「第二 歴史的事実、一 日帝の韓国併合と戦争への朝鮮人の動員」において、本件の背景事実を縷々述べるけれども、当裁判所としては、右背景事実の如何にかかわらず、本件の判断は可能と考えるので、以下においては検討しない。

第二  事実問題

一  従軍慰安婦制度の実態及び慰安婦原告らの被害事実

1  従軍慰安婦制度の実態

(一) 別紙一及び二によれば

昭和七年(一九三二年)ころから終戦まで、長期に、かつ、広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したこと、慰安所は、当時の軍当局の要請により設置されたものであること、敗走という混乱した状況下で、慰安婦等の婦女子が現地に置き去りにされる事例があったこと、戦地に移送された慰安婦の出身地としては、日本を除けば、朝鮮半島出身者が多かったこと、昭和七年(一九三二年)にいわゆる上海事変が勃発したころ、同地の駐屯部隊のために慰安所が設置されたことが窺われ、そのころから終戦まで各地に慰安所が存在していたこと、慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により、あっせん業者らがこれに当たることが多かったが、その場合でも、業者らが甘言を弄し、あるいは、畏怖させるなどの方法で、本人たちの意思に反して募集する場合が数多く、また、官憲等が直接これに加担するなどの場合もみられたこと、業者が慰安婦等の婦女子を船舶等で輸送するに際して、旧日本軍が慰安婦を特別に軍属に準じた扱いにするなどして渡航申請に許可を与え、帝国日本政府が身分証明書等の発給を行い、あるいは、慰安婦等の婦女子を軍の船舶や車両によって戦地に運んだ場合もあったこと、慰安所の多くは民間業者により経営されていたが、一部地域においては、旧日本軍が直接慰安所を経営していた事例が存在したこと、民間業者の経営にかかる場合においても、旧日本軍において、その開設に許可を与え、あるいは、慰安所規定を設けてその利用時間・利用料金や利用に際しての注意事項などを定めるほか、利用者に避妊具使用を義務づけ、あるいは、軍医が定期的に慰安婦の性病等の病気の検査を行うなどの措置を採り、さらには、慰安婦に対して外出の時間や場所を限定するなどしていたところもあったこと、利用者の階級等によって異なる利用時間を定めたり、軍医が定期的に慰安婦の性病等の検査をしていた慰安所があったこと

以上の各事実は当事者間に争いがない。

(二) 右当事者間に争いがない事実と《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。

(1) 各地における慰安所の開設は、当時の軍当局の要請に基づくものであるが、その開設の目的は、当時、旧日本軍占領地域内において、日本軍人による住民婦女子に対する強姦等の陵辱行為が多発したことから、これによる反日感情が醸成されることを防止する高度の必要性があったこと、性病等の蔓延による兵力低下を防止する必要があったこと、軍の機密保持・スパイ防止の必要があったことなどが挙げられる。

(2) 昭和七年(一九三二年)に上海事変が勃発したときに、上海に派遣された旧日本陸海軍が当地の駐屯部隊のために慰安所を設置したのが確実な資料によって確認される最初の軍慰安所である。帝国日本が中国に対する全面的な戦争を開始した昭和一二年(一九三七年)以後、中国各地に多数の慰安所が設置され、その規模、地域的範囲は戦争の拡大とともに広がりをみせた。

(3) 慰安所が存在したことが確認できる国または地域は、日本、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ(当時)、タイ、ビルマ(当時)、ニューギニア(当時)、香港、マカオ及びインドネシア(当時)である。また、慰安婦の総数を示す資料はなく、また、これを推認させるに足りる資料はないから、慰安婦総数を確定するのは困難であるが、前記のように、長期に、かつ、広範な地域にわたって慰安所が設置されていたことから、数多くの慰安婦が存在したと考えられる。

(4) 慰安婦の出身地として資料により確認できる国または地域は、日本、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピン、インドネシア及びオランダである。なお、戦地に移送された慰安婦の出身地としては、日本人を除けば朝鮮半島出身者が多い。

(5) 慰安所の多くは、民間業者によって経営されていたが、一部地域においては、旧日本軍が直接慰安所を経営していた事例もあった。民間業者が経営していた場合においても、旧日本軍がその開設に許可を与えたり、慰安所の施設を整備したり、慰安所の利用時間、利用料金や利用に際しての注意事項等を定めた慰安所規定を作成したりするなど、旧日本軍が慰安所の設置や管理に直接関与していた。

慰安婦の管理については、旧日本軍は、慰安婦や慰安所の衛生管理のために慰安所規定を設けて利用者に避妊具使用を義務づけたり、軍医が定期的に慰安婦の性病等の病気の検査を行う等の措置をとった。慰安婦に対して外出の時間や場所を限定するなどの慰安所規定を設けて管理していたところもあった。慰安婦たちは、戦地においては常時軍の管理下において軍とともに行動させられており、自由もない、痛ましい生活を強いられていた。

(6) 慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により斡旋業者らがこれに当たることが多かったが、その場合も戦争の拡大とともに人員の確保の必要性が高まり、そのような状況の下で、業者らが甘言を弄したり、畏怖させる等の方法で本人たちの意思に反して集める事例が多く、さらに、官憲等が直接これに加担する等の事例もあった。

(7) 慰安婦の輸送に関しては、業者が慰安婦等の婦女子を船舶等で輸送するに際し、旧日本軍は彼女らを特別に軍属に準じた扱いにするなどしてその渡航申請に許可を与え、また帝国日本政府は身分証明書等の発給を行うなどした。また、軍の船舶や車両によって戦地に運ばれた事例も少なからずあったほか、敗走という混乱した状況下で現地に置き去りにされた事例もあった。

2  慰安婦原告らの被害事実

反証はまったくないものの、高齢のためか、慰安婦原告らの陳述書やその本人尋問の結果によっても、同原告らが慰安婦とされた経緯や慰安所の実態等については、なお明瞭かつ詳細な事実の確定が殆ど不可能な証拠状態にあるため、ここでは、ひとまず証拠の内容を摘記した上、末尾においてその証拠価値を吟味し、確実と思われる事実を認定することとする。

(一) 原告甲花子の陳述

(1) 原告甲花子は、大正七年(一九一八年)、現韓国全羅南道木浦市で生まれた。家は貧しく、藁葺き部屋二つであった。同原告は、一九歳であった昭和一二年(一九三七年)の春ころ、現韓国全羅南道光州市で呉服屋を経営していた社長宅に住み込みの家政婦として働いていたが、買い物のために外出したとき、洋服を着た日本人と韓国式の服を着た朝鮮人の二人の青年から、「金儲けができる。仕事があるからついてこないか。」と声をかけられた。同女は、当時としては婚期に遅れた年齢にあり、金儲けがしたいと思っていた矢先であったので、どんな仕事をするかわからないまま、彼らを信用してついて行くことにした。同女は、朝鮮の港から大阪に連れて行かれ、大阪で一泊した後、再び船に乗せられるなどして、上海に連れて行かれた。

(2) 同女は、上海のアメリカ人かフランス人の租界区の近くにある「陸軍部慰安所」と書かれた看板が掲げられている長屋に連れて行かれた。同女を勧誘した日本人の男性が慰安所の主人であった。右長屋は、人が二人やっと寝ることができる程度の広さの、窓ない三〇室位の小部屋に区切られており、同女は、その一部屋を割り当てられた。同女は、右部屋で炊事・洗濯の仕事をさせられるものと思っていた。しかし、右長屋の一部屋を割り当てられた翌日、カーキ色をした陸軍の服を来た日本人の男が部屋に入ってきて、同女を殴って服を脱がせたため、同女は悲鳴を上げて逃げようとしたが、部屋の戸に鍵ががかっており、逃げることができなかった。

(3) 同女は、その翌日から、右部屋において、生理のときを除いて毎日朝九時から夜二時くらいまで、軍人との性交渉を強要され続けた。慰安所の主人の妻が軍人から金をもらっていたが、同女は一度も金をもらったことはなかった。同女は、軍人の相手をしたくなかったので、炊事・洗濯などの家事をしていた「チョウさん」という中国人夫婦の手伝いに時々抜け出したり、主人に対して、炊事・洗濯だけの仕事をさせてくれるよう懇願したが、その都度、激しく殴られ、生傷が絶えなかった。同女は、ある日、どうしても耐えられず、慰安所から逃げ出したが、主人に見つかって連れ戻され、炊事場で、主人から、長さ約五〇センチメートルの樫の棍棒で体中を激しく殴られ、最後に頭を殴られ大出血をした。このときの頭の傷が原因で、同女は、現在も、雨降りの際に頭痛がしたり、時々頭が空白になる症状に悩まされている。

(4) 終戦後、慰安所の主人も軍人らも、同女だけを慰安所に残したままいなくなった。残された同女は、建物を壊したり放火していた中国人から危害を加えられるのではないかという恐怖の中、チョウさんの奥さんに匿われた後、上海の埠頭まで連れていってもらった。同女は、埠頭で三日間乞食のように野宿をして帰国船を待ち、ようやく帰国船に乗って釜山に帰り着き、故郷に帰ることができた。故郷では、父親は怒りや悲しみのために「火病」で亡くなっており、同女は、生きていた母親には上海に行って軍人の家で炊事などをしたと嘘を告げた。

(5) 同女は、釜山挺身隊対策協議会へ被害申告をするまで、従軍慰安婦であったことを隠し通し、本件訴訟提起後に際して初めて実名を公表した。

(二) 原告乙松子の陳述と供述

(1) 原告乙松子は、陰暦一九二四年(大正一三年)、現韓国慶尚南道三浪津郡で生まれた。同女は、七人兄弟の一番上に生まれ、弟三人と妹三人がおり、家の暮らしぶりは非常に貧しかったため、自分が働いて金を稼いで家に入れなければならないと思っていた。同女が数えで一七歳のころ、三人の男が娘たちを集めるために、同女らの家族が住んでいた村にやってきた。同女の家にも、五〇歳以上と思われる朝鮮語と日本語を話す男が訪ねてきて、同女に対し、「日本の工場で金になる仕事がある。」と話しかけてきた。同女は、日本の工場に行って働き、一儲けして父母を養いながら嫁に行きたいと考え、その男の話を信用して日本の工場へ働きに行くことに決めた。同女は、父母に対し、「日本で稼いで家族に仕送りがしたい。」と申し出たところ、父母はこれを疑うこともなく反対もしなかった。その後、同女を勧誘した男が、同女と一〇人くらいの村の娘らを一緒に釜山に連れて行った。同女は、釜山から大きな船に乗せられて台湾に連れて行かれた。

(2) 船酔いがひどかった同女は、病院に入院した後、慰安所に連れて行かれた。同女を勧誘した男が慰安所の主人であった。主人は、同女に対し、「客をとれ。」と述べ、同女は、「それは話が違う。」と逃げようと考えたが、言葉も道も分からず、頼れる人も知っている人もいないため逃げることはできなかった。同女は、男と接したのはその時が初めてであり、乱暴な暴行を受け、軍人たちから強姦された。日本人の軍人が客の多数を占めていたので、慰安所において朝鮮語を使うことは暴力によって禁止されており、同女の呼び名も「フジコ」であった。

(3) 同女は、一日に一〇人前後の男の相手をさせられ、性交渉を強要された。休みは一か月に一日だけであり、自由な外出もできなかった。慰安所での食事は粗末であり、食べたい物を買う金もなく、あまりの空腹のため慰安所の近くのバナナ園のバナナを取って食べ、そのことでバナナ園の主からも、慰安所の主人からもひどく叩かれたことがある。同女は、台湾にいた五年間、慰安所の主人から金をもらったことはなく、位の高い軍人の客からもらうチップも、慰安婦として身綺麗にしておくための化粧品を買える程度のものだった。国民学校に通っていた弟が「文房具を買ってほしい。」と同女宛てに書いた手紙が届いた際、同女は金が一銭もなく、泣いていたため、他の慰安婦の娘たちが同情して募金をしてくれ、その金で文房具を買って弟に送ってやったこともあった。同女は、慰安婦として長年性交渉を強いられたことにより、右の太股の下がパンパンに腫れ上がるという病気に罹り、その手術痕が現在でも遺っている。

(4) 同女は、敗戦後、慰安所の管理人であった朝鮮人の男に連れられて船で故郷に帰った。同女は、父母に対し、「台湾にある日本の工場で働いていたが給与はもらえなかった。」と虚偽の事実を述べた。その後、同女は、結婚し子供も生まれたが、台湾の慰安所での生活のことは隠し通してきた。同女は、本件訴訟提起により慰安婦であったことを実名にて初めて公表した。

(三) 原告丙竹子の陳述と供述

(1) 原告丙竹子は、陰暦一九一八年、朝鮮全羅北道裡郡慕懸で生まれた。同女は、父母が出稼ぎに出ているため、家事一切を切り回していた。同女は、昭和一二年(一九三七年)の春、満一七、一八歳のころ、夕食の準備をするため畑の畦道で蓬を摘んでいたところ、四〇歳くらいの朝鮮人の男から、「そんなことをしているよりも自分についてくれば、履き物もやるし着物もやる。腹一杯食べられるところに連れて行ってやる。」と声をかけられた。同女は、家が貧しく満足な履き物もなく、空腹を癒すことに精一杯の生活を送っていたため、その男の誘いに応じてついて行くことに決めた。同女が「父母に挨拶してから行きたい。」と懇請したにもかかわらず、その男は、「時間がない。急ごう。」と言って、同女の手を引っ張って行った。同女は、男から手を取られて引っ張られたことに驚き、恐ろしく恥ずかしくて、そのまま泣きながら連れて行かれた。同女は、その途中、その男の前を歩かされ、約一時間後に裡里邑の旅館に連れて行かれた。同旅館の部屋は、外から鍵がかけられ、同女と同じような年齢の娘たちが一四、五人おり、いずれもどこに何のために連れて行かれるのか分からず泣いていた。翌日、カーキ色の服を着てゲートルを巻き腰にサーベルをぶら下げた旧日本軍の軍人三人が、同女らを裡単駅から列車に乗せて三日かけて上海駅まで連れて行った。上海駅に着いた後、同女らは、幌のないトラックの荷台に乗せられ、右軍人のうち一人は運転席の横に座り、残りの二人は荷台に乗った。右トラックの運転手も旧日本軍の軍人であった。同女らは、約三時間くらいトラックに乗せられ、旧日本陸軍の駐屯地に連れて行かれた。

(2) 同女らは、陸軍駐屯地の大きな軍用テントの近くに転々と置かれた小屋に一人ずつ入れられた。その小屋は、むしろの壁に萩の木で編んで作った傾斜のない屋根が葺かれ、二、三畳の広さの床は枯れ葉を敷いた上にござを敷き、その上に国防色の毛布を敷いた粗末な造りであった。そのため、雨が降ると雨水がたくさん漏れてきた。同女は、軍服と同じ色の上着とモンペを支給され、最初の二日間に血液検査と「六〇六号」という注射を打たれた。その「六〇六号」という注射は、その後も二週間に一回の割合で打たれた。

(3) 陸軍駐屯地に入れられて四日目に、星が三個ついた軍服を着たミヤザキという年輩の将校が小屋に入ってきて、同女に対して執拗に性交を迫り、これに抵抗できなくなった同女を三日間にわたり毎晩犯した。その後、多くの軍人が小屋の前に行列をつくり、次から次へと同女を強姦し、昭和二〇年(一九四五年)八月の解放のときまで約八年間、毎日朝九時から、平日は八、九人、日曜日は一七、八人の軍人が、小屋の中で同女を強姦し続けた。

(4) 同女は、昭和二〇年(一九四五年)六、七月ころ、ある兵隊から、「自分と約束しているのになぜ他の男と寝たのか。」と責め立てられ、軍靴で腹を蹴り上げられたり、刀で背中を切りつけられたりしたこともあった。そのときの傷痕は現在でも同女の体に遺っており、今でも痛みがあり、特に雨の降る日などは胸がうずき、めまいなどのために歩くことさえままならない症状に悩まされている。同女は、右の暴行による傷の治療を一週間受けただけで、また軍人との性交渉を強要された。

(5) 昭和二〇年(一九四五年)の日本の敗戦後、陸軍駐屯地から日本人の軍人はいなくなり、残された同女は、「解放だ。帰ろう。」と叫びながら集ってきた朝鮮人とともに、屋根のない貨車に乗って何日もかけてようやく家に帰ることができた。同女が家に帰ると両親は既に亡くなっており、弟が叔母の家に身を寄せていた。両親は、同女を捜し回り、絶望して亡くなってしまっていた。同女は、弟にも、後に二度結婚した夫に対しても、自己の被害事実を隠し通してきた。同女は、二度の結婚生活の間、子供ができず、婦人科の診察を受けて初めて自己の子宮が変形しており、子供ができない体になっていることを知った。

(四) 慰安婦原告らの陳述や供述の信用性

(1) 前記(一)ないし(三)のとおり、慰安婦原告らが慰安婦とされた経緯は、必ずしも判然としておらず、慰安所の主人等についても人物を特定するに足りる材料に乏しい。また、慰安所の所在地も上海近辺、台湾という以上に出ないし、慰安所の設置、管理のあり方も、肝心の旧軍隊の関わりようが明瞭でなく、部隊名すらわからない。

しかしながら、慰安婦原告らがいずれも貧困家庭に生まれ、教育も十分でなかったことに加えて、現在、同原告らがいずれも高齢に達していることをも考慮すると、その陳述や供述内容が断片的であり、視野の狭い、極く身近な事柄に限られてくるのもいたしかたないというべきであって、その具体性の乏しさのゆえに、同原告らの陳述や供述の信用性が傷つくものではない。かえって、前記(一)ないし(三)のとおり、慰安婦原告らは、自らが慰安婦であった屈辱の過去を長く隠し続け、本訴に至って初めてこれを明らかにした事実とその重みに鑑みれば、本訴における同原告らの陳述や供述は、むしろ、同原告らの打ち消し難い原体験に属するものとして、その信用性は高いと評価され、先のとおりに反証のまったくない本件においては、これをすべて採用することができるというべきである。

(2) そうであれば、慰安婦原告らは、いずれも慰安婦とされることを知らないまま、だまされて慰安所に連れてこられ、暴力的に犯されて慰安婦とされたこと、右慰安所は、いずれも旧日本軍と深くかかわっており、昭和二〇年(一九四五年)八月の戦争終結まで、ほぼ連日、主として旧日本軍人との性交を強要され続けてきたこと、そして、帰国後本訴提起に至るまで、近親者にさえ慰安婦としての過去を隠し続けてきたこと、これらに関連する諸事実関係については、ほぼ間違いのない事実と認められる。

二  朝鮮人女子勤労挺身隊制度の実態及び挺身隊原告らの被害事実

1  朝鮮人女子勤労挺身隊制度の実態

(一) 別紙一及び二によれば

昭和一九年(一九四四年)八月二二日に女子挺身勤労令(勅令第五一九号)が公布(官報同月二三日)されたこと、女子挺身勤労令三条一項には「挺身勤労を為すべき者(以下隊員と称す)は国民職業能力申告令に依る国民登録者たる女子とす」と、同条二項には「前項該当者以外の女子は志願を為したる場合に限り隊員と為すことを得るものとす」と各規定されていたこと、女子挺身勤労令四条一項には「引続き挺身勤労を為さしむる期間は特別の事情ある場合を除くの外概ね一年とす」と、同条二項には「隊員をして引続き一年を超え挺身勤労を為さしむる場合に於ては隊員の同意あることを要す」と各規定されていたこと、軍需会社法が昭和一八年(一九四三年)一〇月三一日に公布されたこと、昭和一九年(一九四四年)一〇月一日から昭和二〇年(一九四五年)八月三一日までの間、不二越鋼材工業株式会社が存在したこと

以上の各事実については当事者間に争いがない。

(二) 右当事者間に争いがない事実と《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。ただし、甲一八の一二五頁にもあるとおり、朝鮮人(半島)女子勤労挺身隊については資料的な制約もあり、現在なおその実態が十分に解明されていない。

(1) 帝国日本政府は、昭和一二年(一九三七年)の日中戦争の開始以後、戦争遂行のための軍需生産の拡大の必要に迫られ、そのなかで労働力は恒常的な不足状態に陥った。そのため、同政府は、昭和一三年(一九三八年)四月に国家総動員法を制定し、翌一四年(一九三九年)には国民徴用令が公布されたが、朝鮮については「募集」形式による労務動員計画を策定して労働力の統制と総動員体制の確立が図られ、さらに昭和一六年(一九四一年)の戦局の拡大とともに国民勤労報国協力令が施行され、翌昭和一七年(一九四二年)には国民動員計画が立てられてゆくなか、次第に女子も総動員体制に組み込まれるようになった。そして、昭和一八年(一九四三年)九月の次官会議で女子勤労動員の促進に関する件が決定され、「女子遊休労力の解消を期」し、「勤労要員を確保する」ために一四歳以上の未婚の女子を動員の対象とし、行政、婦人団体等の協力で勤労挺身隊を自主的に結成させ、団体で行動させようとした。また、同月の閣議決定、国内態勢強化方策では、「女子動員の強化」がうたわれた。さらに昭和一九年(一九四四年)二月の閣議決定、決戦非常措置要綱では、「女子の女子挺身隊強制加入の途を拓」くことが決められ、翌月には女子挺身隊制度強化方策要綱が閣議決定され、国民登録者である女子を強制的に挺身隊に組織し、必要業務の協力を命令できることが可能になった。そして、同年八月には、挺身隊制度に国家総動員法に基づく法的根拠を与えるために女子挺身隊勤労令が公布施行されたが、昭和二〇年(一九四五年)三月、総合的、計画的、機動的な動員体制確立のために国民勤労動員令が制定されるとともに、女子挺身勤労令もこれに包摂されて廃止された。

(2) ところで、女子勤労挺身令は、旧朝鮮にも同時に施行され、朝鮮人の未婚の女子も女子勤労挺身隊員として戦時下に多数動員された。その動員時期は昭和一六年(一九四一年)からであるが、戦争末期の昭和一九年(一九四四年)以降に特に多く、動員された工場は、不二越鋼材工業株式会社富山工場(以下「不二越富山工場」という。)、東京麻糸紡績株式会社沼津工場(以下「東京麻糸沼津工場」という。)、三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所道徳工場(以下「三菱名航道徳工場」という。)等の軍需工場であった。

彼女たちの大部分は、国民学校を卒業した程度で、十代半ばにあり、動員地域は、京城、仁川、光州、釜山等の旧朝鮮南部の主要都市であった。対象が学生であったため、動員に当たったのは、主として学校であった。彼女たちの多くは、国民学校の担任教師から、「挺身隊に行けば勉強もさせてもらえるし、給料もいい。」「朝鮮からはみんな行くから。」などと言われ、それを信じて志願したが、強制的に動員された者も少なからずいた。志願の形式をとってはいたが、学校ごとに人員を割り当てた「官斡旋」であったため、志願者が不足した学校では官から割り当てられた人員をこなすために対象者をくじ引きで決めたり、教師が勝手に名簿を作成して強制的に行かせたりした例もあった。

(3) 不二越富山工場、東京麻糸沼津工場、三菱名航道徳工場に動員された朝鮮人女子勤労挺身隊員は、期数や地域別に寄宿舎に配置された。工場側は、彼女たちの逃亡を防ぎ労働能率を高めるため、寄宿舎に寮父と寮母とを置き、一つの家族のように、寮父には寄宿舎全体の統率を、寮母には彼女たちの日常生活の管理をそれぞれ担当させた。寄宿舎では、休日の外出も許可が必要で、門限を守らなければならなかった。

女子勤労挺身隊は軍隊式の組織で、小隊、中隊等に分けられ、小隊長と中隊長を彼女たちの中から選んだ。彼女たちの一日の日程も軍隊式に統率された。彼女たちは、起床すると逃亡していないか確認するために人員点検を受けてから工場に赴き、工場では、班長の監督の下、旋盤作業やペンキ塗りを主に行った。また、当時の食料事情は悪く、彼女たちの食事量は極めて少なく、副食もたくあん程度であり、常時空腹状態にあった。さらに戦局の悪化とともに、連日にわたって軍需工場も空襲を受けるようになり、親元を遠く隔たった彼女たちに耐え難い恐怖を味わわせた。

不二越富山工場には、推定一〇〇〇名を超える女子勤労挺身隊員が動員されたといわれる。同工場は、昭和二〇年(一九四五年)三月、軍需省と朝鮮総督府から平壌近辺の沙里院への施設移設の命令を受け、同年七月上旬、隊員約四二〇名もこれに伴って沙里院に移動したが、工場稼働に至らず、終戦、解放を迎えた。東京麻糸沼津工場には、推定約一〇〇名が動員されたらしいが、同工場は、同年七月一七日の空襲でほとんど全焼し、隊員たちは、富士紡績株式会社小山工場に移動して終戦、解放を迎えた。三菱名航道徳工場には、推定約三〇〇名が動員されたといわれるが、昭和一九年(一九四四年)一二月七日に発生した東南海地震により、女子挺身隊員六名が死亡した。この地震と同月一八日から始まった空襲により、同工場は、全国に分散、疎開した。

このような苛酷な生活を強いられたにもかかわらず、女子勤労挺身隊員のうち賃金をまともに受けとった者はほとんどなく、大抵は、強制的に貯蓄させられ、戦後もその返還を受けることができなかった。

2  挺身隊原告らの被害事実

前記認定の事実と《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。ただし、これらはいずれも挺身隊原告らの陳述や供述によって認定したものであるが、先にも述べたとおり、女子勤労挺身隊の実態はなお解明不十分であり、また、同原告らの陳述等の間にも、若干の食い違いや整合的な理解が困難な部分があったり、逆に、過度の一致から記憶の相互干渉が疑われる部分があったりするため、必ずしも全面的に正確ということはできない。しかし、有力な反証もなく、また、これらの陳述等が、信用性判定の重要な基準とされる事実と感情との自然な絡み、関連性を含むことからして、それらが同原告らの原体験に基づくものであることに疑いはなく、たとえ細部に記憶違いがあるとしても、大筋においては信用できると考える。

(一) 原告柳賛伊、同朴小得、同朴順福

(1) 原告柳賛伊は、昭和三年(一九二八年)、現韓国の馬山で出生し、父は早くに亡くなり、母と兄三人とで暮らしていた。同女は、国民学校の三年生まで通った後、同女の兄が経営する雑貨屋の手伝いをしていた。

同女が満一六歳の昭和一九年(一九四四年)五月ころ、朝鮮人の区長が同女の家を訪れ、日本人が持ってきたという工場の写真を同女に見せた。その写真には、日本の女学生が働いているところや、生け花をしているところが写っていた。区長は、同女にその写真を見せながら、「日本に行けば勉強もさせてくれるし、給料も高い。」、「生け花、ミシンも教えてくれる。」などと述べ、同女の女子勤労挺身隊への加入を勧誘した。同女は、習い事とか勉強ができ、お金を儲けることができるということだったので、どこの工場でどんな仕事をするのか聞かなかったが、右の勧誘に応じた。

昭和一九年(一九四四年)六月、馬山の府庁に一四歳から一六歳くらいまでの娘約五〇人が集まり、出身地別に数組に分けられ、日本人に引率されて汽車で釜山まで行き、釜山から船に乗って下関に渡った。下関では、後に富山で同女らの舎監になった男が迎えに来ていた。同女らは、下関から汽車で富山に赴き、不二越富山工場に到着した。

(2) 原告朴小得は、昭和六年(一九三一年)一二月五日に、韓国慶尚北道大邱市で、八人兄弟の五番目の子として農家に生まれた。

同女は、国民学校を昭和一九年(一九四四年)三月に卒業したが、同年五月、満一二歳のときに、国民学校の担任教師だった守屋に学校に呼ばれ、守屋ともう一人の男性教師から、「日本に仕事をしに行けば、生け花、裁縫が習える。学校にも行ける。」、「日本国民であれば全てがみな奉仕しなければならない立場である。どうせ行くなら早く行ったほうがずっと有利である。」、「もし日本に行って嫌だったら、いつでも帰ってきていいから。」などと女子勤労挺身隊への加入を勧誘された。同女は、信頼していた教師からの勧誘であり、自己の希望にもかなう内容だったので、右勧誘を承諾した。

出発の日、慶尚北道の道庁の広場には、国民学校の四年生から同女よりも二歳上までの娘たち四五人くらいが集っていた。同女らは、大邱駅から汽車に乗り、夕方ころ釜山に着いた。釜山で一泊し、翌朝、船で下関に渡った。そして、下関でも一泊した後、汽車で富山県に赴き、不二越富山工場に到着した。

(3) 原告朴順福は、昭和五年(一九三〇年)四月二三日、晋州で、三人兄弟の二番目の子として農家に生まれた。

同女が満一三歳の昭和一八年(一九四三年)秋か昭和一九年(一九四四年)春ころ、国民学校の担任教師であった影山から、「日本に行ったらもっと勉強もできるし、生け花もできるから行ったらどうか。」、「工場の設備や待遇もいいし、学校に行くこともできる。」、「生け花も習える。どうせみんな行くことになるんだから、一番先に行くのが有利である。」などと女子勤労挺身隊への加入を勧誘された。同女は、日頃から影山を信頼し、また、「天皇によくやることが愛国である。」と考えていたことから、日本のどこに行くのか分からなかったが、影山の右勧誘を承諾した。

出発の日、晋州駅に約五〇名の娘が集まり、同女らは、不二越富山工場から派遣された日本人に引率されて汽車で釜山まで行った。釜山では、大邱から来た約五〇人と馬山から来た約五〇人と合流した。すべて女性で、年齢的には、一三歳くらいから二三歳くらいまでであった。そして、釜山から船で下関に渡り、一泊後、汽車で富山県に赴き、不二越富山工場に到着した。

(4) 不二越富山工場の寄宿舎では、八畳から一〇畳の部屋に出身地別に一〇人くらいずつが入れられ、共同生活をした。外出は許可制となっており、入り口で見張っている憲兵に外出許可証を見せなければ外出することができなかった。しかし、外出許可が下りるのは、病院に行くときだけで、買い物のための外出では許可が下りなかった。また、所持金もすべて預けさせられ、一々理由を告げなければ返してもらえなかった。さらに、家に手紙を出すにも、何を書いたかあらかじめ舎監に見せてから封をさせられた。

(5) 当時の食料事情から、食事は特に貧弱で、少量のご飯と、朝は味噌汁、昼はたくあん、夜はおかず一品といった具合であり、魚肉類は一度もでたことはなかった。食事の絶対量が不足しており、隊員たちは、いつも腹を空かせていた。

原告朴小得によれば、出勤の際、昼食用の弁当として食パン三切れを渡されたものの、あまりの空腹のため、朝のうちにその食パンを食べ、昼食時は水だけを飲んで休んでいたという。また、食堂で見ると、勤労動員された日本人女学生たちのおひつにはいつも八分目のご飯が入れられていたが、朝鮮人隊員らのおひつには半分しか入っていなかったとのことである。

(6) 工場では、主として旋盤関係の作業に当てられた。

原告柳賛伊によると、昼夜一週間交代制のもとで、昼業のときは朝六時起床、七時就業、夕方まで就労させられ、夜業のときは夜八時から明け方まで就労させられたとのことである。

作業は、立ち仕事できつく、しかも、危険であった。そのため、足がむくんで炎症を起こしたり、バイトで手指を落としそうになったり、金属屑で指を痛めたりして、入院したり、手術を受けたりすることも多かった。

(7) そして、戦局の悪化とともに、不二越富山工場も頻繁に空襲を受けるようになり、死の恐怖に怯えつつ、防空壕や近くの神社仏閣に逃げ込むことも重なった。その後、昭和二〇年(一九四五年)七月、同工場の沙里院への移設にともない、同原告らも富山から清津に船で渡り(敵潜水艦の雷撃を避けるために迂回航路がとられたようで、長時間の航海となり、いずれも船酔いに苦しめられたようである。)、黄海道沙里院に至ったが、しばらくして自宅待機を命じられ、帰郷して終戦、解放を迎えた。

(8) 同原告らは、結局賃金を一銭も支払ってもらっておらず、また、勉強はもとより、生け花、裁縫・ミシンなどを教えてもらってもいない。

(二) 原告李英善、同姜容珠、同鄭水蓮

(1) 原告李英善は、昭和六年(一九三一年)四月二一日に六人兄弟の第三子として出生した。

同女は、釜山の有楽国民学校六年生であった満一三歳のとき、同校の校長と担任教師の岡秀彦から、「勤労挺身隊として日本の飛行機を作る工場に行けば、給料をたくさんもらえるし、勉強もさせてもらえる。これからは韓国の女はみんな行くことになるのだから、どうせ行くなら一番に行った方がよい。」、「二年の満期だ。」などと女子勤労挺身隊への加入を勧誘された。同女は、日本での就労先等の詳しい話は聞かなかったが、校長と担任の岡を信用していたので、女子勤労挺身隊へ入隊することを決心した。有楽国民学校からは、同女のほか、原告姜容珠、同鄭水蓮を含めて合計五名が女子勤労挺身隊に入隊した。

同女は、昭和一九年(一九四四年)四月中旬ころ、担任の岡に引率されて旅館に集った。その旅館には、一四歳から二〇歳くらいの娘たちが大勢集っていた。同女は、その旅館に一泊した後、船で下関に渡り、汽車で東京麻糸沼津工場に赴いた。

(2) 原告姜容珠は、昭和五年(一九三〇年)一二月一二日に生まれ、釜山の有楽国民学校に入学した。同女は、有楽国民学校六年生であった満一三歳のとき、同じクラスの原告鄭水蓮とともに、担任教師の斉藤シズエから、「これからみんな順番で行くようになる。どうせ行くなら先に行った方が給料も多いし、勉強もゆっくりできる。」、「給料もいいし、立派な寄宿舎生活ができる。」などと女子勤労挺身隊への加入を勧誘された。同女らは、いずれも斉藤シズエを信頼していたので、日本のどこに行くのか聞かなかったが、女子勤労挺身隊に入ることを承諾した。そして、同女らは、原告李英善と同様にして東京麻糸沼津工場に赴いた。

(3) 同女らは、工場の敷地内にある寄宿舎で生活し、毎朝五時に起床し、朝食の後、掃除をしてから工場に出勤した。寄宿舎では、十畳くらいの部屋に一二人くらいが入り、共同生活をおくった。寄宿舎からの外出は許可がないとできなかった。

(4) 食事は、主にサツマイモないしイモ飯で、量が少なく、同女らはいつも腹を空かせていた。

(5) 同女らによると、工場の始業時間は、午前六時か七時であり、午後六時か七時まで連日一二時間働かされたという。また、同女らの記憶によれば、同工場は、航空機の翼用の麻糸等を製造する軍需工場で、やや趣旨不明ながら、心棒に繊維を巻き付けたり、巻きとった糸を取り外したりする作業をしたとのことである。同女らは、いずれも、いつも腹を空かせながら、一二時間たちっぱなしで作業に当たり、辛くて苦しい毎日であったという。

(6) その後、戦局の悪化とともに、東京麻糸沼津工場も空襲を受けるようになり、昭和二〇年(一九四五年)七月一七日、遂に同工場は、爆撃により寄宿舎もろともほとんど全焼してしまった。その際、同女らは、爆弾の大きな音に怯え、一晩中田んぼの水に浸かって、あるいは岩場に隠れて恐怖のうちに難を避けた。

(7) 右のとおり、東京麻糸沼津工場が全焼したため、同女らは、静岡県駿東郡小山の富士紡績小山工場に移動したが、間もなく終戦、解放を迎えた。その後、原告李英善と同郷水蓮は、新潟経由で帰郷し、同姜容珠は、一人右小山工場に取り残されたが、たまたま出会った朝鮮人男性に連れられ、下関経由で釜山に帰ることができた。

(8) 同女らもまた賃金を一銭ももらってはいないし、もちろん勉強等もさせてもらっていない。

(三) 原告粱錦徳

(1) 原告粱錦徳は、昭和四年(一九二九年、ただし、戸籍上は一九三一年)一一月三〇日、現韓国の羅州中央洞で生まれた。

同女が国民学校六年生の昭和一八年(一九四三年)五月ころ、憲兵二名と正木校長が教室に来て、「体格が良く頭が良い子が日本に行って働けば、金もたくさん稼げるし女学校にも入れる。帰ってくるときは、家を一軒買える金を持って帰れるようになる。行きたい者は手をあげろ。」などと話した。これを聞いた同女のクラスの者は全員手をあげた。クラスの者のうち同女を含めた九名が選ばれた。正木校長は、「行く人は父親に印鑑を押してもらわなければならない。」と説明し、担任教師のマスモトも、「両親にちゃんと言うように。」ということであったので、帰宅後、同女も両親にその旨を告げたが、強く反対された。同女は、両親の目を盗んで印鑑を持ちだし、マスモトに渡した。同女は、印鑑を無断で持ち出したことを父からきつく叱られたが、女学校に行けるということで有頂天になって喜んでいた。

(2) 出発の日、同女は、先輩たち二三名と一緒に、憲兵や朝鮮人数師に引率されて羅州駅から汽車に乗った。同女らは、麗水で汽車を降り、麗水郡庁で軍楽隊の歓迎を受けたが、そのとき、木浦、光州、順川及び羅州から合わせて約一四〇名の一三歳から一七歳くらいまでの娘たちが集っていた。同女らは、麗水から憲兵に引率されて船に乗り、下関に渡った。下関からは、汽車で名古屋まで赴いた。

(3) 三菱名航道徳工場の寄宿舎には、五〇歳くらいの寮母、さらに年長の山添三平寮長、二五歳くらいの男性職員がいた。寄宿舎は、一部屋が六畳で、出身地ごとに七、八名が入れられた。年上の者は寝台で眠り、幼い者は畳の上で眠った。また、軍隊式に、出身地別に中隊、小隊、分隊と分けられた。毎朝、工場から日本人の班長が寄宿舎に同女らを迎えに来た。同女らは四列に整列し、「挺身隊の歌」や軍歌を歌いながら行進して工場に出勤した。工場から帰るときも同様であった。あるとき、工場からの帰りに、日本の低学年の国民学校生から、「朝鮮人のルンペン。」、「朝鮮人のばか。」などとひやかされたので、同女が走って行ってその子に手を出したところ、監督からひどい目に遭わされたことがあるという。

また、月二回の休日があったが、自由に外出することは許されず、洗濯ばかりしていたとのことである。

(4) 食事は、朝食は麦飯に梅干二個、昼食はご飯に福神漬かたくあんがついただけであり、夕食はいつもおかず一品で、味噌汁が一週間に一度つくだけであった。隊員たちは、いつも腹を空かせていた。同女は、ある日、あまりの空腹から、そっと食堂に行き、たくあんを見つけて食べたが、塩辛かったため、大量に水を飲んで下痢を起こしたという。また、ある日、バケツに残飯が捨ててあるのが目に入り、思わず手で拾って食べようとバケツに手を入れたとたん、日本人の女学生から靴で力一杯踏まれ、「この半島人。」、「このルンペン。」などと罵られたという。

(5) 工場では、陸軍用偵察機を製作していた。同女は、当初、飛行機部品についての説明やヤスリのかけ方などの講習を受けた後、アルコール(?)で部品を洗滌するなどの作業に就いた。その後、同女は、プロペラなどにペンキを塗る作業に当てられた。その作業は、大きな重い憤霧器を両手で持ち、スイッチを押さえながら一日中立ちっぱなしで行うもので、大変な重労働であった。同女らは、毎朝六時に起床した後、八時から仕事を始め、冬は午後五時まで、それ以外の季節には午後六時まで、「神風」と書かれた鉢巻をして仕事に従事した。

(6) 昭和一九年(一九四四年)一二月七日、東南海地震が起こった。同女は、地震というものを知らなかったので、空襲と勘違いし、防空頭巾を探してうろうろしていたところ、建物の天井や壁が崩れて旋盤等の機械、機具類の下に生き埋めになってしまった。しばらくして助けられたが、そのとき、機械で肩を強く打ち、脇腹にも怪我をしたため、現在でも肩の痛みは消えず、脇腹にも大きな傷痕が残っている。その後、毎晩のように空襲を受けるようになり、その度に同女らは恐怖のうちに防空壕に逃げ込んだ。また、寄宿舎から一〇〇メートルくらいの場所に焼夷弾が落ちたこともあったが、幸にも寄宿舎は燃えなかったとのことである。

(7) その後、三菱名航道徳工場は、各地に分散疎開し、同女もこれにともなって富山県の大門工場に移った。そこでも同じような仕事をさせられ、やがて終戦、解放を迎えた。同女らは、班長に汽車で下関まで引率してもらい、下関から船で釜山に渡り、釜山から汽車に乗り、昭和二〇年(一九四五年)一〇月二二日、故郷にたどり着いた。

(8) 結局、同女もまた学校に入れてもらえず、賃金ももらえなかった。

なお、当時は一八歳くらいで結婚するのが普通であったが、同女は、縁談があっても、女子勤労挺身隊に行っていたことが分かるとみな断られ、二一歳のとき、相手に女子勤労挺身隊員であったことを隠して結婚したという。

第三  法律問題

一  本件の実質的問題

1  別紙一の「第七 原告らの請求の根拠」における原告らの主張は、いずれも必ずしも明快ではなく、その本旨とするところを正確にはとらえ難いが、ほぼ次のとおりの実質的法律問題を含むと考えられる。

(一) 日本国憲法は、その制定前の過去の帝国日本の戦争と植民地支配を違法な侵害と認め、被告に対し、日本国憲法上の現在の義務として、その被害者たる個人への公式謝罪と賠償を命じているか(「道義的国家たるべき義務」に基づく請求)。

(二) 日本国憲法上の義務としてではなく、右戦争と植民地支配当時の明治憲法上の義務として、同憲法二七条の適用による損失補償は可能か(明治憲法二七条に基づく請求)。

(三) 日本国憲法制定前の過去の侵害ではなく、これを長年にわたって放置した現在の不作為による侵害として、日本国憲法が被告に対し、公式謝罪と賠償を命じているか(立法不作為による請求)。

(四) 挺身隊原告らについては、さらに契約責任の追及としての賠償は可能か(「挺身勤労契約」の債務不履行による請求)。

以上のとおりに整理できると思われる。

2  そこで、以下右観点のもとに、原告らの主張に即し、その順序に従って検討を加えることとする。

なお、別紙一の「第八 不法行為による国家賠償責任」中、永野元法務大臣の発言に関する部分は、通常の国家賠償請求として理解可能であるが、被告政府高官のコメント、国会答弁等に関する部分は、原告ら主張の「道義的国家たるべき義務」と密接不可分の関係にあり、畢竟、右(一)、(三)に解消されるものと考える。

二  「道義的国家たるべき義務」に基づく公式謝罪及び損害賠償請求について

1  原告らは、帝国日本が旧朝鮮を植民地支配していた昭和一二年(一九三七年)ころから昭和二〇年(一九四五年)ころまでの間、台湾、上海の慰安所に強制連行され、従軍慰安婦として長期間複数の軍人との性交渉を強要され、あるいは、日本国内の不二越鋼材工業株式会社富山工場等の軍需工場に連行され、女子勤労挺身隊員として長期間の肉体労働に従事させられ、前記認定のとおりの過酷な肉体的、精神的苦痛を被ったことに関し、昭和一八年(一九四三年)のカイロ宣言、昭和二〇年(一九四五年)のポツダム宣言、日本国憲法前文及び九条が被告に対し、侵略戦争と植民地支配の被害者に対する謝罪と賠償を具体的内容とする「道義的国家たるべき義務」を負わせているとして、国家賠償法一条一項、四条、民法七二三条の類推適用により、被告に対し、公式謝罪及び損害賠償の支払を求める権利を有すると主張する。

2  そこで、まず、「道義的国家たるべき義務」について原告らの論旨に従ってその正当性を検討することとする。

(一) 原告らの論旨は、ほぼ次のとおりと思われる。

(1) 帝国日本が受諾したポツダム宣言は、「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙の除去、」「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重」という理念をかかげるとともに、「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府」の樹立を目標とするものであり、これにより、明治憲法における天皇主権の原理はその根底から動揺をきたし、国民主権の原理に立脚する日本国憲法の制定が不可避となった。その意味で、ポツダム宣言は、日本国憲法の根本規範であり、同様にして、ポツダム宣言の引用するカイロ宣言もまた日本国憲法の根本規範である。そして、カイロ宣言は、明治以来の帝国日本の領土拡張を侵略として否定的に評価し、その結果の回復を要求している。したがって、日本国憲法の根本規範であるポツダム宣言、カイロ宣言は、明治以来の帝国日本の領土拡張と植民地支配を侵略と評価する歴史認識に立っており、右根本規範に基づく日本国憲法もこれと同一の認識に立っている。

(2) それゆえ、日本国憲法前文にいう「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し」とは、単なる人道主義による戦争否定ではなく、過去の侵略戦争、植民地支配に対する反省の表明と解すべきである。そして、右の反省を踏まえ、日本国憲法は、「恒久の平和を念願し」て九条の戦争放棄条項を設けるとともに、その前文において、いわゆる平和的生存権を「全世界の国民」の権利として確認し、単に戦争のない状態ではなく、戦争を始めとする構造的暴力の解消に積極的に努めていくことを日本国民の義務と定めたものと解される。

(3) ところで、帝国日本は、侵略戦争と植民地支配によってアジアの人々の平和的生存権を奪った。そして、これによる人権侵害によってもらたされた肉体的、精神的荒廃は、いまだに被害者を苦しめ続けている。

したがって、このような帝国日本自らの手による平和的生存権への侵害について謝罪し、その損害に対して補償を行うことは、全世界の国民に平和的生存権を保障した日本国憲法前文及び九条により義務づけられており、かかる意味で、日本国憲法前文及び九条は、被告に対し、侵略戦争と植民地支配の被害者に対する謝罪と賠償とをその具体的内容とする「道義的国家たるべき義務」を負わせている。そして、日本国憲法前文によれば、「道義的国家たるべき義務」は、「国家の名誉をかけ、全力を挙げて」達成されなければならない国政上の最優先課題であるから、国会は、侵略戦争と植民地支配の被害者に対し、謝罪と賠償のための立法を行い、その範囲や方法を特定する義務がある。しかるに、国会は、今日までかかる立法を怠っているから、同じく「道義的国家たるべき義務」を課せられた司法裁判所としては、類似法令の類推適用等を通じて謝罪と賠償の範囲、方法を特定し、司法的救済を実現すべきであるが、植民地支配の一環としての公務員の違法行為による損害が問題となっている本件においては、国家賠償法の類推適用によることが可能であり、適当でもある。

(4) もとより、右の国家行為は、日本国憲法と国家賠償法制定以前のものであるが、「道義的国家たるべき義務」の本質上、右謝罪と賠償の請求権は、除斥期間や時効による免責と相容れない。「道義的国家たるべき義務」は、日本国家を道義的国家としなければならないという被告の現在の法的義務であり、除斥期間、時効は問題とならず、また、過去の事実についての単なる不法行為責任を追及するものではないから、国家賠償法の遡及適用が問題となるものでもない。

ほぼ以上のとおりと理解される。

(二) しかし、原告らの右論旨には、次のとおりに疑問がある。

(1) まず、帝国日本のポツダム宣言受諾により、明治憲法における天皇主権の原理が根底から動揺し、国民主権の原理に基づく日本国憲法の制定が法論理的、法価値的に不可避となったことは、通説的見解でもあり、また、右ポツダム宣言中、原告ら指摘の諸条項や公知の昭和二〇年八月一一日付連合国回答とに照らしても明らかである。したがって、ポツダム宣言は、連合国相互及び帝国日本を国際法的に拘束するのは勿論、同宣言が帝国日本の国内改革を強く志向し、そのための軍事的占領を目的とする限りにおいて、その当時の世界情勢上、国内法的にも直接に妥当するものであったと考えられ、その意味において、同宣言が日本国憲法の根本規範たる性質を有することも承認することができる。

しかし、カイロ宣言については、ポツダム宣言と同様に考えることは困難である。すなわち、カイロ宣言は、第二次世界大戦中に帝国日本と交戦状態にあった主要連合国であるアメリカ合衆国、イギリス、中国の三か国の首脳によるカイロ会談の結果を宣言したものであるが、これがポツダム宣言に引用されたその仕方をみると、ポツダム宣言においては、当時帝国日本が支配していた「満州」、「台湾」等の地域の返還や「朝鮮」の独立等、主として当時帝国日本の領土とされていた地域の統治権に関する右三か国の基本方針を表明するものとしてカイロ宣言が引用されているとみるのが順当であり、それ以上に、明治以来の帝国日本の侵略戦争、植民地支配を不法なものと認め、その結果の回復を要求するものとまでは直ちには読み難い。また、右にみたとおり、カイロ宣言は、右三か国が現に戦闘状態にある敵国に対し、「日本国の侵略を制止し罰するため、今次の戦争を行っている」旨その戦争目的の正当性を表明した極めて政治的、軍事的色彩の強い文書であって、右文言をもって法的拘束力を認めるとすれば、逆に、帝国日本が右三か国に勝利した場合、帝国日本の戦争目的にも法的拘束力を認めなければならないことになりかねず、直ちに是認できる見方とは思われない。したがって、カイロ宣言は、ポツダム宣言の歴史的基礎となった文書ではあるけれども、ポツダム宣言と同様の意味でこれが日本国憲法の根本規範となったとは解し難い。

そうすると、日本国憲法の根本規範となったのは、ポツダム宣言中、帝国日本の国内改革を志向する部分、すなわち、「民主主義的傾向の復活強化に関する一切の障礙の除去」、「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重の確立」、「日本国国民の自由に表明せる意思に従った平和的傾向を有し、かつ、責任ある政府の樹立」等の諸条項であり、これらの条項による限り、ポツダム宣言が、帝国日本の戦争と植民地支配の被害者個々人に対し、直接の謝罪と賠償とを命じているとは解し難い。

(2) 次に、いわゆる平和的生存権に関する部分についても疑問がある。

まず、原告らの平和的生存権侵害に関する主張には、明らかな論理の飛躍があるように思われる。すなわち、平和的生存権は、日本国憲法前文に初めて規定されたこと、ところが、原告ら主張の違法な侵略戦争と植民地支配は、日本国憲法制定前の帝国日本の国家行為であること、したがって、日本国憲法制定前の過去の違法行為について直ちに平和的生存権の侵害をいうことはできないはずであること、右のとおりであり、この飛躍を回避しようとすれば、日本国憲法前文の「確認する」との言葉どおりに、帝国日本による右戦争と植民地支配の時期から平和的生存権がすでに確立されていたとされなければならないが、さすがにこれは無理と思われる。また、平和的生存権を確認すること自体が、過去の帝国日本の戦争と植民地支配の被害者に対する直接の謝罪と賠償とを命じているとの趣旨であれば、今度は、平和的生存権と「道義的国家たるべき義務」との関係が不明瞭となる。

加えて、平和的生存権の権利性にも問題がある。

日本国憲法前文は、平和主義の確立が憲法制定の動機の一つであることを宣言し、平和主義の理想や我が国の国際社会におけるあり方等の日本国憲法の理念を表明しているものであるが、「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」の実現には、前文自体からも明らかなように、平和な国際秩序を維持するための各国の協力が必要であり、また、そのような「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」我が国も、国際平和を維持するために日本国憲法九条の枠内で積極的に努力する必要があるのであって、その手段、方法は国際社会の刻々と変化する実情に応じて多岐・多様である。言い換えれば、「平和のうちに生存する権利」の「平和」とは、基本的には、理念ないし目的としての抽象的概念であって、平和的生存権は、日本国憲法の統治原理である国民主権の下に、国民の付託を受けた国会ないし内閣が、憲法前文ないし九条の理念を尊重しつつ、その政治責任において行う諸政策によって具体的に実現されていくものである。要するに、平和的生存権は、現歴史段階においては、学説上いわゆる背景的権利のレベルにとどまっており、直ちに司法裁判所による救済を求める具体的権利性を有するとまではいえない。そうすると、過去の帝国日本の侵略戦争と植民地支配がアジアの人々に深刻な被害を与えてきたことについて、道義的には、日本国民一人一人が加害者としての責任を素直に認め、これを深く反省し、陳謝すべきであるのは当然であるとしても、日本国憲法前文及び九条が被告に対し、侵略戦争と植民地支配の被害者個々人に対する直接の謝罪と賠償を具体的内容とする法的義務を負わせていると解することはできない。

(3) さらにまた「道義的国家たるべき義務」の内容についてもやや理解困難な点がある。

原告らの主張によれば、「道義的国家たるべき義務」は、侵略戦争と植民地支配の被害者に対する謝罪と賠償とをその具体的内容とするとし、一方では、国会にその旨の立法義務を課しつつ、他方では、その立法が怠られているとして、司法裁判所に直接の謝罪と賠償を請求するのであるが、「道義的国家たるべき義務」が国会に立法義務を課すのであれば、右立法義務に違反する国会の不作為が侵害行為となり、求められるべき謝罪と賠償も右侵害行為に起因するものに限られるはずである。ところが、原告らの主張は、国会が右立法義務を怠っているとの理由であたかもその立法にかわるべき直接の救済を司法裁判所に求めるとの趣旨に理解され、ここにおいては、「道義的国家たるべき義務」とは、司法裁判所に対し、右立法にかわるべき立法行為、すなわち、実質的には、原告らが被告に対して有すべき請求権そのもの、しかも、時効にも除斥期間にもかからない特別の実体法上の請求権を創出すべき行為義務を課すものとなっていて、国家賠償法の類推適用というのも、その実、単なる仮借に過ぎないこととなる。しかし、このような主張は、いかに原告らのいう救済法的措置としても、明らかに憲法の権力分立原理や司法権理解にそぐわず、裁判所の権限においてよくなしうることではない。

右に関連して付言するに、原告らは、「道義的国家たるべき義務」とは、あくまで法的義務であって道義的義務ではないとも主張するが、右「道義的国家」が、道義的義務に属するものを実現すべき国家を意味する限り、そのような国家となるべき法的義務があるといったところで道義的義務が法的義務に転化するはずはなく、その論理は言葉の魔術に類する。事実、「道義的国家たるべき義務」の内容は甚だ多義的であるが(別紙一の「第八 不法行為による国家賠償責任」においては、法案提出義務や調査義務であるともされている。)、この多義性は、根本的には、その主張における法的義務と道義的義務との区別の曖昧さに由来するように思われる。したがって、「道義的国家たるべき義務」の論証にかかずらうことなく、端的に、法解釈として、なにが日本国憲法の法的義務かを検討すべきと思われる。

以上のとおりであり、原告らの「道義的国家たるべき義務」に関する論旨には種々の疑問があっていまだ成熟した議論には至っておらず、採用することはできない。

(三) そこで、前記一の本件の実質的問題1で述べた観点から、改めて日本国憲法が帝国日本の戦争と植民地支配等に関していかなる態度をとっているかを検討するに、九条を含めて憲法各本条にはこれを窺い知るに足りる規定はなく、結局、憲法前文に当たるほかはない。そして、これによれば、前文一項の「再び戦争の惨禍が起ることのないようにする」との部分、二項の平和的生存権、三項の「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」との部分が関連部分として挙げられよう。そして、右一項の「戦争の惨禍」が、自国民の惨禍だけではなく、他国民の惨禍をも含み得ること、二項の平和的生存権が、全世界の国民の有する権利とされていること、また、右三項の部分についても、ポツダム宣言中の軍国主義駆逐、除去規定、戦争犯罪人処罰規定に照らすと、帝国日本こそ「自国のことのみに専念して他国を無視し」た国家であったとの認識と反省が背景にあるように読みとれ、事実、註解日本国憲法(法学協会)上巻五五頁には、明確にその趣旨が述べられていて、それは、明治憲法から日本国憲法への転換を直接に体験した世代の法学者には自明のことであったと思われることを考え併せると、日本国憲法は、確かに、帝国日本の軍国主義とこれによる植民地、占領地支配に関して否定的な認識と反省を有し、かつ、その抜本的改革を図ろうとの意図のもとに存立していることに疑いはない。

しかし、だからといって、右軍国主義の被害者個人に対し、日本国憲法が直接の謝罪と賠償を命じ、その旨の憲法上の立法義務を直ちに被告に課しているとまでは解することはできない。

まず、日本国憲法前文の裁判規範性に問題があり、先にみたとおりに、「平和のうちに生存する権利」との明文がある平和的生存権についてさえ、いわゆる背景的権利の域にとどまっている現状にあっては、明文規定もない右過去の行為に対する謝罪と賠償について、日本国憲法が、これに違反すれば憲法上の立法不作為の違法をもたらすとするほどの強度の拘束性をもって立法義務を課していると解することはできない。次に、右前文規定にも明らかなとおり、日本国憲法は、国際協調主義、国家主権相互尊重主義のもとにあり、また、同憲法制定当時、戦争被害に対する賠償は平和条約、講和条約等の国家間条約によってなされるのが通常であり、同憲法も当然その前提に立っていたと解されることからすると、右軍国主義の被害についても、右条約等による賠償を本則としていると解されるのであって、それ以外、それ以上に、直ちに個人に対する謝罪と賠償の立法義務があるとまでは解し難い。

右のとおりであり、軍国主義の被害については、道義的にはともかく、日本国憲法前文を根拠とする限り、法的義務として、被害者個人に対する直接の謝罪と賠償とが被告に立法上義務づけられているということはできない。

(四) よって、その余の点について判断するまでもなく、「道義的国家たるべき義務」に基づく原告らの公式謝罪及び損害賠償の請求、換言すれば、前記実質的問題の1の請求には理由がない。

なお、後論との関係で述べると、従軍慰安婦制度は、日本国憲法の個人の尊重、人格の尊厳原理を根本から侵すものであるが、これがいかに非人道的行為であったにせよ、同憲法制定前の侵害行為につき、なんらの媒介を経ることなく、直ちに右原理を適用、妥当させて違法性を導くことにはどうしても論理的飛躍が残る。やはり、日本国憲法制定後の侵害行為の検討をすべきと思われる。

三  明治憲法二七条に基づく損失補償請求について

1  原告らは、帝国日本による戦争と植民地支配という国策に基づき、欺罔・甘言ないし力づくで従軍慰安婦、あるいは女子勤労挺身隊員にさせられ、奴隷的労働に従事させられたことにより、その身体・精神に生涯癒えることのない傷を負い、労働力の多くを喪失し、家族からも離れ、生活維持に困窮するなど、人格権上あるいは財産権上多大な損害を被ったのであり、帝国日本の積極的国策により原告らの人格権あるいは財産権が「公共の用」に供されたものであり、このことは、人格権あるいは財産権の本質的内容を侵すほどの強度な損失であって、「特別の犠牲」に当たるとしたうえで、原告らの被った右損失の原因たる行為は、明治憲法下になされたものであるから、明治憲法二七条に基づき、被告に対し、損失補償の請求ができると主張する。

2  しかし、明治憲法は、遅くとも日本国憲法の施行によって全面的に失効しており、経過規定による効力維持条項もない。

また、仮に、日本国憲法に反しない限度で明治憲法も有効であるとの立場をとったとしても(ただし、一般の法令についてはその旨の法律が制定されたが、明治憲法自体に同様の効力を認めることは不可能であろう。)、明治憲法二七条一項は、「日本臣民はその所有権を侵害さるることなし。」、同二項において、「公益の為必要なる処分は法律の定むる所に依る。」と規定し、公益のためにする所有権等の財産権の制限につき、一般的に補償を認めるべきものであるかについて明文規定を欠いていたところ、損失補償請求権は法律に特別の規定が置かれている場合にのみ認められるものと一般に解されており、明治憲法下の判例も一貫してそのように解していたのであり、明治憲法下における損失補償は、法律の明文規定があって初めて認められる制度であったことは明らかである。

原告らは、明治憲法についても、当時の解釈によるのではなく、現時点で正当な解釈を施した上でこれを適用すべきである旨主張するけれども、実質的には日本国憲法の遡及適用を認めるに等しく、採用できる議論ではない。

そうすると、補償立法が存在しないことを前提とし、明治憲法二七条に基づき、直接の損失補償請求権が発生すると解することは不可能である。

3  よって、その余の点について判断するまでもなく、明治憲法二七条に基づく原告らの損失補償請求には理由がない。

四  立法不作為による国家賠償請求について

1  原告らは、日本国憲法前文、九条、一四条、一七条、二九条一項及び三項、四〇条及び九八条二項の各規定を総合すれば、憲法解釈上、被告国会議員らに対し、帝国日本による侵略戦争及び植民地支配により被害を被った個人への戦後賠償ないし補償を行う立法を制定すべき義務が課されていることは明らかであるにもかかわらず、同国会議員らは戦後五〇年を経た今日に至るまでかかる立法をしないまま放置してきたのであるから、右の立法をなすべき合理的期間を十分徒過している上、少なくともこのことにつき過失があったといえるとして、予備的に、立法不作為に基づく国家賠償請求として、国家賠償法一条一項、四条、民法七二三条の適用により、公式謝罪及び損害賠償を求めることができると主張する。

2  ところで、いわゆる立法不作為による国家賠償請求については、当事者双方が援用する最高裁昭和六〇年一一月二一日第一小法廷判決(民集三九巻七号一五一二頁)があり、同判決が法的判断の枠組みを規定するというべきところ

(一) 同判決には

国家賠償法一条一項は、公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたときに、国又は公共団体がこれを賠償する責めに任ずることを規定するものであるから、国会議員の立法行為(立法不作為を含む。以下同じ。)が国家賠償法上違法となるかどうかは、国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であって、当該立法の内容の違憲性の問題とは区別されるべきであるとの前提のもとに、国会議員が立法に関し個別の国民に対する関係においていかなる義務を負うかについては、憲法の採用する議会制民主主義の下においては、国会は、国民の間に存する多元的な意見及び諸々の利益を立法過程に公正に反映させ、議員の自由な討論を通してこれらを調整し、究極的には多数決原理により統一的な国家意思を形成すべき役割を担うものであり、国会議員は、多様な国民の意向をくみつつ、国民全体の福祉の実現を目指して行動することが要請されているのであって、議会制民主主義が適正かつ効果的に機能することを期するためにも、国会議員の立法過程における行動で、立法行為の内容にわたる実体的側面に係るものは、これを政治的判断に任せ、その当否は終局的に国民の自由な言論及び選挙による政治的評価にゆだねるのを相当とすること、立法行為の規範たるべき憲法についてさえ、その解釈につき国民の間には多様な見解があり得るのであって、国会議員は、これを立法過程に反映させるべき立場にあること、憲法五一条が、国会議員の発言・表決につきその法的責任を免除しているのも、国会議員の立法過程における行動は政治的責任の対象とするのにとどめるのが国民の代表者による政治の実現を期するという目的にかなうとの考慮によること、このように、国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであって、その性質上法的規制の対象になじまず、特定個人に対する損害賠償責任の有無という観点からあるべき立法行為を措定して具体的立法行為の適否を法的に評価するということは、原則的には許されないものといわざるを得ないと論決した上、結論として、「国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきであって、国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法一条一項の規定の適用上、違法の評価を受けないものといわなければならない。」

以上のとおりの判示がある。

一般に、国家がいつ、いかなる立法をすべきか、あるいは立法をしないかの判断は、国会の広範な裁量のもとにあり、その統制も選挙を含めた政治過程においてなされるべきであることは、日本国憲法の統治構造上明らかであるから、当裁判所もまた基本的には右最高裁判決と意見を同じくする。

(2) しかし、右結論部分における「例外的な場合」についてはやや見解を異にし、立法不作為に関する限り、これが日本国憲法秩序の根幹的価値に関わる基本的人権の侵害をもたらしている場合にも、例外的に国家賠償法上の違法をいうことができるものと解する。

まず、国会議員は、原則として、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負わないと結論づけるに当たって、同判決は、結局のところ、議会制民主主義が適正かつ効果的に機能することを期するためには、国会議員の立法過程における行動で、立法行為の内容にわたる実体的側面に係るものは、これを政治的判断に任せ、その当否は国民の自由な言論及び選挙による政治的評価にゆだねるのが相当であるとし、国会議員の立法行為は、本質的に政治的なものであって、その性質上法的規制の対象になじまないことを理由とするように思われる(なお、憲法解釈をいう部分は趣旨不明瞭であるし、いわゆる免責特権をいう部分は、違法と責任とを峻別する我が国の法制度のもとにおいてはほとんど論拠とならず、これらの説示にさして意味があるとは思われない。)。

しかし、右のような議会制民主主義、選挙をも含めて究極的には多数決原理による議会制民主主義の政治が、その原理だけのもとでは機能不全に陥り、多数者による少数者への暴政をもたらしたことの反省に立って日本国憲法が制定されたはずである。そして、その日本国憲法の原理、議会制民主主義に立つ立法府をも拘束する原理が基本的人権の思想であり、むしろ端的に、基本的人権の尊重、確立のために議会制民主主義の政治制度が採用されたはずであって、その上に、さらにこれを十全に保障するために裁判所に法令審査権が付与されたはずである。したがって、少なくとも憲法秩序の根幹的価値に関わる人権侵害が現に個別の国民ないし個人に生じている場合に、その是正を図るのは国会議員の憲法上の義務であり、同時に裁判所の憲法上固有の権限と義務でもあって、右人権侵害が作為による違憲立法によって生じたか、違憲の立法不作為によって生じたかによってこの理が変わるものではない。ただ、立法権、司法権という統治作用ないし権限の性質上の差異や、国会、裁判所という機構ないし能力上の差異によって自ずとその憲法上の権限の範囲やその行使のあり方が定まり、裁判所にあっては、積極的違憲立法についての是正権限は右人権侵害以上に広く、消極的違憲の立法不作為についての是正権限は右根幹的価値に関わる人権侵害のごとく、より狭い範囲に限られることになると解されるのであるが、逆に、積極的違憲立法の是正については、当該法令のその事案への適用を拒否することによって簡明に果たされるのに対し、消極的違憲の立法不作為については、その違憲確認訴訟を認めることに種々の難点があることから、国家賠償法による賠償を認めることがほとんど唯一の救済方法になるともいえるのであって、その意味では、むしろ、立法不作為にこそ違法と認める余地を広げる必要もある。

このように、立法不作為を理由とする国家賠償は、憲法上の国会と裁判所との役割分担、憲法保障という裁判所固有の権限と義務に関することがらであり、国会議員の政治的責任に解消できない領域において初めて顕在化する問題というべきであって、これが国家賠償法上違法となるのは、単に、「立法(不作為)の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行う(行わない)というごとき」場合に限られず、次のような場合、すなわち、前記の意味での当該人権侵害の重大性とその救済の高度の必要性が認められる場合であって(その場合に、憲法上の立法義務が生じる。)、しかも、国会が立法の必要性を十分認識し、立法可能であったにもかかわらず、一定の合理的期間を経過してもなおこれを放置したなどの状況的要件、換言すれば、立法課題としての明確性と合理的是正期間の経過とがある場合にも、立法不作為による国家賠償を認めることができると解するのが相当である。

3  そこで、以上の見地に立って本件につき検討を加える。

(一) 従軍慰安婦について

(1) 慰安婦原告らが、いずれもその貧困のため、慰安所経営者と思われる人物の甘言に乗せられ、不任意に旧日本軍の関与する慰安所に連行され、監禁同然にして、長期間、慰安婦として旧日本軍人との性交を強要されたこと、同原告らが被った肉体的・精神的苦痛は極めて苛酷なものであり、帰国後もその恥辱に苛まれ、今なお心身ともに癒すことのできない苦悩のうちにあることは、前記事実問題においてみたとおりである。

そして、この従軍慰安婦制度が、原告らの主張するとおり、徹底した女性差別、民族差別思想の現れであり、女性の人格の尊厳を根底から侵し、民族の誇りを踏みにじるものであって、しかも、決して過去の問題ではなく、現在においても克服すべき根源的人権問題であることもまた明らかである。

例えば、甲一四(四五頁以下)に次の資料がある。

昭和一三年三月、常州駐屯間内務規定、独立攻城砲兵第二大隊

第九章 慰安所使用規定

「単価

使用時間は一人一時間を限度とす

支那人 一円〇〇銭

半島人 一円五十銭

日本人 二円〇〇銭」

「慰安所内に於て飲酒するを禁す」

「女は総て有毒者と思惟し防毒に関し万全を期すべし」

「営業者は酒肴茶菓の饗応を禁す」

「営業者は特に許したる場所以外に外出するを禁す」

慰安所という名の施設の「使用」規定であり、「使用」単価、料金であり、「使用」限度時間である。酒肴茶菓の饗応、接待もなく、ただ性交するだけの施設がここにあり、慰安婦とはその施設の必需の備付品のごとく、もはや売(買)春ともいえない、単なる性交、単なる性的欲望の解消のみがここにある。そして、前記事実問題でみた慰安所開設の目的と慰安婦たちの日常とに鑑みれば、まさに性奴隷としての慰安婦の姿が如実に窺われるというべきである。しかも、使用単価に現れた露骨な民族差別。希少性ないし需給法則のゆえに日本人の単価が高かっただけではあるまい。

(2) ところで、日本国憲法は、その人権総論部分である一三条において、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」旨規定し、個人の尊重、個人の人格の尊厳に根幹的価値を置いている。そして、右に典型例をみたとおり、従軍慰安婦制度が女性の人格の尊厳を根底から侵すものであり、民族の誇りを甚だしく汚すものであったことも論をまたない。

しかるに、従軍慰安婦制度は、日本国憲法制定前に設けられた制度であり、慰安婦原告らが慰安婦とされたのも日本国憲法制定前のことであって、これがいかに重大な人権侵害であろうとも、それだけを理由として、直ちに日本国憲法がその賠償立法を被告に命じていると解したり、あるいはこれに代わるべき救済を直接に裁判所が命じることができると解したりすることができないことは、先に「道義的国家たるべき義務」の検討においてみたとおりである。

(3) しかしながら、従軍慰安婦に対する人権侵害の重大性と現在まで続く被害の深刻さに鑑みると、次のような解釈が可能と考える。

従軍慰安婦制度は、その当時においても、婦人及び児童の売買禁止に関する国際条約(一九二一年)や強制労働に関する条約(一九三〇年)上違法の疑いが強い存在であったが、単にそれのみにとどまらず、同制度は、慰安婦原告らがそうであったように、植民地、占領地の未成年女子を対象とし、甘言、強圧等により本人の意思に反して慰安所に連行し、さらに、旧軍隊の慰安所に対する直接的、間接的関与の下、政策的、制度的に旧軍人との性交を強要したものであるから、これが二〇世紀半ばの文明的水準に照らしても、極めて反人道的かつ醜悪な行為であったことは明白であり、少なくとも一流国を標榜する帝国日本がその国家行為において加担すべきものではなかった。にもかかわらず、帝国日本は、旧軍隊のみならず、政府自らも事実上これに加担し、その結果として、先にみたとおりの重大な人権侵害と深刻な被害をもたらしたばかりか、慰安婦原告らを始め、慰安婦とされた多くの女性のその後の人生までをも変え、第二次世界大戦終了後もなお屈辱の半生を余儀なくさせたものであって、日本国憲法制定後五〇年余を経た今日まで同女らを際限のない苦しみに陥れている。

ところで、このような場合、法の解釈原理として、あるいは条理として、先行法益侵害に基づくその後の保護義務を右法益侵害者に課すべきことが一般に許容されている。そうであれば、日本国憲法制定前の帝国日本の国家行為によるものであっても、これと同一性ある国家である被告には、その法益侵害が真に重大である限り、被害者に対し、より以上の被害の増大をもたらさないよう配慮、保証すべき条理上の法的作為義務が課せられているというべきであり、特に、個人の尊重、人格の尊厳に根幹的価値をおき、かつ、帝国日本の軍国主義等に関して否定的認識と反省を有する日本国憲法制定後は、ますますその義務が重くなり、被害者に対する何らかの損害回復措置を採らなければならないはずである。しかるに、被告は、当然従軍慰安婦制度の存在を知っていたはずであるのに、日本国憲法制定後も多年にわたって右作為義務を尽くさず、同女らを放置したままあえてその苦しみを倍加させたのであり、この不作為は、それ自体がまた同女らの人格の尊厳を傷つける新たな侵害行為となるというべきである。

そして、遅くとも従軍慰安婦が国際問題化し、国会においても取り上げられるようになった平成二年(一九九〇年)五、六月ころには、右不作為による新たな被告の侵害行為は、それ以前の多年にわたる放置と元慰安婦女性の高齢化、労働省職業安定局長による「民間業者が云々」との政府答弁(別紙一の第八の一5参照)、さらには、そのころまでには明確に自覚されるに至った女子差別の撤廃と性的自由の思想等々とあいまっていよいよその人権侵害の重大性と救済の必要性を増し、違憲的違法性を帯びるものとなったということができる。

(4) しかして、《証拠略》によれば、内閣官房内閣外政審議室は、平成五年(一九九三年)八月四日、「いわゆる慰安婦問題について」と題する従軍慰安婦問題についての調査報告書を提出し、また、当時の河野洋平内閣官房長官も、「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」、「戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。」、「いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。」との慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話を発表していることが認められるところ、右調査報告書と内閣官房長官談話によれば、従軍慰安婦問題が、女性差別、民族差別に関する重大な人権侵害であって、「心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」べきものであり、かつ、「そのような気持ちを我が国ニしてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきもの」であることが表明されている。そして、これに加えるに、そのころまでには、ドイツ連邦共和国、アメリカ合衆国、カナダにおいて、第二次世界大戦中の各国家の行為によって犠牲を被った外国人に対する謝罪と救済のための立法等がなされた事実もまた明らかになっており(別紙一及び二のとおり、当事者間に争いがない。)、これら先進諸国の動向とともに従軍慰安婦制度がいわゆるナチスの蛮行にも準ずべき重大な人権侵害であって、これにより慰安婦とされた多くの女性の被った損害を放置することもまた新たに重大な人権侵害を引き起こすことをも考慮すれば、遅くとも右内閣官房長官談話が出された平成五年(一九九三年)八月四日以降の早い段階で、先の作為義務は、慰安婦原告らの被った損害を回復するための特別の賠償立法をなすべき日本国憲法上の義務に転化し、その旨明確に国会に対する立法課題を提起したというべきである。そして、右の談話から遅くとも三年を経過した平成八年八月末には、右立法をなすべき合理的期間を経過したといえるから、当該立法不作為が国家賠償法上も違法となったと認められる。

なお、被告国会議員も、右の談話から右立法義務を立法課題として認識することは容易であったといえるから、当該立法をしなかったことにつき過失があることは明白である。

(5) 以上によれば、慰安婦原告らは、被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、被告国会議員が右特別の賠償立法をなすべき義務を違法に怠ったことによる精神的損害の賠償を求める権利があるというべきところ、その額については、将来の立法により被害回復がなされることを考慮し、各金三〇万円と算定するのが相当である。

なお、慰安婦原告らは、請求の趣旨1の公式謝罪をも求めるけれども、いかなる方法による謝罪をするかについては、これこそ政治部門の独自の判断と裁量により決すべき事項であって司法裁判所の介入できるところでないから、そもそも右請求の適格性すら問題である上に、少なくとも現時点においては、その必要が認められない。

(一) 女子勤労挺身隊について

(1) 挺身隊原告らが、日本に行けば勉強もできる、金もできる、生け花、裁縫、ミシンも習えるとの勧誘にだまされ、いまだ幼くして帝国日本の軍需工場の未熟練労働力として動員され、過酷な条件下に種々の辛酸をなめたことは前記事実関係において認定したとおりであり、これが当時の帝国日本の学生生徒の勤労動員に比しても、より劣悪、危険な条件下におかれたものであって、民族差別的な取り扱いであることもまた今なお残る我が国の朝鮮人差別問題に照らして明らかである(もっとも、右勧誘に際して同原告らの国民学校での担任教師らが故意に同原告らをだましたかというとかなり疑問であり、むしろ、証拠(証人杉山とみ)によれば、少なくとも原告朴小得の担任教師であった守屋については、同人自身も宣伝用映画にだまされて同原告に善意で女子勤労挺身隊への加入を勧誘したものと認められる。ともかく、本件においては、朝鮮総督府が各学校等にいかなる指示を出して右勧誘を進めていたのか全証拠によっても明らかでなく、結局、右欺瞞が意図的、組織的なものであったと認めるには足りない。)。

(2) しかしながら、挺身隊原告らの被ったその被害の性質と程度は、慰安婦原告らに比べると、やはり相違があり、そのことは、甲七の二の次のような記載からも窺い知ることができる。すなわち、同号証によれば、韓国においては、なぜか従軍慰安婦と勤労挺身隊とが混同されたようで、勤労挺身隊が、その挺身の字の意味からか、従軍慰安婦をいうものと誤解され、右の誤解を恐れていまだ勤労挺身隊員であったことを申告する者が少ないとのことであり、事実、前記事実問題中、原告粱錦徳の被害事実末尾に記載したとおりの実情にある(他の挺身隊原告らについても同様の事情が認められる。)が、このことからも、慰安婦原告らの被った被害がより根幹的価値に関わる重大な人権侵害であることを窺わせる。先にも述べたとおり、従軍慰安婦問題とは、女性の人格の尊厳、あるいはこれと密接不可分ともいうべき女性の性の尊厳を蹂躙するものであって、慰安婦原告らが今なお被っている差別と抑圧については、右韓国の実情からみて、韓国国民もまた日本国民とともに克服しなければならない根源的課題というべきであり、だからこそ、当裁判所も、断固として右女性の人格と性の尊厳を擁護し、同原告らの救済に高度の必要性を認めるものである。もちろん、挺身隊原告らの被った被害を決して軽視するものではないが、先にみた同原告らの被害を当時の帝国日本の食料事情、学生生徒に対する勤労動員体制、圧倒的な軍国主義的風潮と臣民の無権利状態、戦局の状況、自然災害の勃発等々の諸事情に照らして全体的に評価し、さらに第二次世界大戦における帝国日本の戦地、植民地諸国民の被った戦争被害、戦争の惨禍に加えて、加害者である帝国日本臣民のそれをも視野に入れるとき、同原告らの当時の年齢を十分考慮に入れても、なおその被害が格別のものであり、これを放置することが日本国憲法上黙視し得ない重大な人権侵害をもたらしているとまでは認められない。

要するに、挺身隊原告らの被った被害は、戦後賠償、戦後補償の一環としてとらえられるべき問題として、政治部門である立法府、行政府の裁量のもとにあり、同原告らの救済を目的とする特別法の制定が日本国憲法上義務づけられているとは認められない。

(3) よって、その余の点について判断するまでもなく、挺身隊原告らの請求には理由がない。

4  以上の次第であり、被告は、立法不作為に基づく損害賠償として、慰安婦原告らに対し、各金三〇万円を支払う義務があるものと認められるが、挺身隊原告らについてはその義務がない。

五  「挺身勤労契約」の債務不履行による損害賠償請求について

1  挺身隊原告らは、帝国日本との間に、両者の合意によって、同原告らが女子勤労挺身隊に入隊し、その隊員として帝国日本の指示に従って行動するとの非典型契約たる「挺身勤労契約」が成立しており、かかる契約の内容として、帝国日本には、同原告らに対し、生け花・裁縫・ミシン等を教え、また、当然に、同原告らの就労中、工場への移動あるいは帰郷等の間の生命・身体に対する安全配慮義務があるというべきところ、帝国日本は、右の義務の履行を怠ったから、被告は、同原告らに対し、債務不履行に基づく損害賠償の支払を求めることができると主張する。

2  しかしながら、前記事実問題において認定したとおり、挺身隊原告らが、当時の国民学校の教師等により女子勤労挺身隊員として不二越富山工場等の軍需工場に動員されるに当たり、「挺身隊に行けば勉強もさせてもらえるし、給料もいい。」、「日本に仕事をしに行けば、生け花、裁縫が習える。」などとの勧誘がなされたことは事実として認められるが、前記のとおり、女子挺身勤労令等は、いずれも国家総動員法に最終の根拠をおくいわゆる非常時の動員法規であり、同原告らは、いずれもこれに従い、「志願」の形式をとって帝国日本の総動員体制に組み込まれたものである。したがって、同原告らと帝国日本との関係は、すべて右動員法規によって規律される公法関係というべきであり、この間に、同原告らが主張するような一般私法上の権利義務関係を内容とする合意が介在する余地はない。したがって、右「挺身勤労契約」なる契約関係が成立していたことを認めることはできない。

もっとも、女子挺身勤労令の公布施行時期からすると、その以前から挺身隊原告らへの勧誘と動員がなされていたようであり、その際の動員法規がいかなるものであったかについては、本件全証拠によっても定かでないが、時期的には、官斡旋・隊組織による動員であったと思われる。弁論の全趣旨によれば、右官斡旋・隊組織による動員とは、事業主が府県知事に雇用願を提出して承認を得た後、朝鮮総督府に斡旋申請書を提出し、その承認と地域決定を経て、道が職業紹介所及び府、郡等を通じて労務者を選定、取りまとめさせる方式であり、送り出しに当たっては、右事業主が隊組織に編成された労務者を引率、渡航したことが認められる。しかし、その際、朝鮮総督府がいかなる法規により、いかなる権利義務を労務者に対して負ったのかなどの事項についても、本件全証拠によってもまったく明らかでないし、また、右認定の方式によれば、労務者の選定、取りまとめをし、これを右事業主にゆだねるまでが総督府の斡旋業務であったことが窺われるから、それ以上に、総督府に原告ら主張の義務を負わせる「挺身勤労契約」なる契約が成立したことを認めるには足りない。

3  よって、その余の点について判断するまでもなく、挺身隊原告らと被告との間に「挺身勤労契約」なる契約関係が存在することを前提とする同原告らの請求は失当である。

六  不法行為による国家賠償請求

1  被告政府高官のコメント、国会答弁等について

(一) 原告らは、「道義的国家たるべき義務」の具体的内容にとして、帝国日本の植民地支配等の違法行為について被告の法的責任を是認し、補償立法案を作成提出したり、事実調査をしたりすることが憲法上要請されていたにもかかわらず、被告は、その国家責任を終始否定し、従軍慰安婦についても、調査を尽くさないまま安易に国家の関与を否定してきたとし、被告政府高官による前記コメント、国会答弁等が右「道義的国家たるべき義務」に違反する違憲、違法なものであると主張する。

(二) しかしながら、「道義的国家たるべき義務」が十分に論証されたものではなく、採用できないこと、また、日本国憲法が軍国主義、すなわち、原告らのいう侵略戦争と植民地支配の被害者個々人に直接の謝罪と賠償を命じる立法義務を被告に課しているとは解しがたいことは先に述べたとおりであり、そうである以上、右立法案を作成提出したり、そのための事実調査をしたりする義務が被告に課せられているとは、到底解することができない。したがって、原告ら指摘の被告政府高官のコメント、国会答弁等が違法であるとはいえない。

(三) よって、その余の点につき判断するまでもなく、原告らの前記主張に基づく国家賠償請求は理由がない。

2  永野元法務大臣の発言について

(一) 平成六年(一九九四年)四月二八日、当時の永野元法務大臣が、法務大臣就任当日の個別インタビューにおいて、共同通信社所属の記者から「旧軍人として、従軍慰安婦問題を含め、日本の戦争責任をどう考えますか。」と質問されたのに対し、「二〇世紀半ばに一流国が自分の意思を周囲に押しつけるという歴史認識は間違っていた。慰安婦は程度の差はあるが、米、英軍などでも同じようなことをやっている。日本だけが悪いと取り上げるのは酷だ。慰安婦は当時の公娼であって、それを今の目から女性蔑視とか、韓国人差別とかは言えない。」との趣旨の発言をしたこと、そして、右の発言が同年五月四日及び五日の新聞朝刊で報道されたことは当事者間に争いがない。

(二) 原告らは、永野元法務大臣の右発言によって、原告らの名誉ないし人格的価値が著しく侵害されたとして、被告に対し、国家賠償法一条一項により損害賠償の支払を求める。

ところで、名誉とは、民事法上、純粋な内心的感情や主観的評価ではなく、人がその品性、徳性、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける外形的、事実関係的な客観的評価、すなわち、社会的名誉を指し、かつ、このような社会的名誉は、常に、ある特定の人の個人的価値として生じ、保護されるべきものと解されるから、言論により他人の名誉を侵害したといえるためには、その言論自体がある特定の個人(法人等を含むことは勿論である。)を対象としつつ、その個人の社会的評価を低下させるに足りる具体的な事実的内容を含んでいるか、あるいは、その言論のなされた状況からしてこれが明らかである必要がある。

そこで、これを本件についてみるに、永野元法務大臣は、前記のとおり、共同通信社所属の記者からの質問に答えて「慰安婦は程度の差はあるが、米、英軍などでも同じようなことをやっている。日本だけが悪いと取り上げるのは酷だ。慰安婦は当時の公娼であって、それを今の目から女性蔑視とか、韓国人差別とかは言えない。」との趣旨の発言をしたというのであって、その内容は、あくまで従軍慰安婦についての歴史的、制度的認識とその評価にかかるものであり、しかも、その発言状況からしても、これについて一般論としての意見を述べたに過ぎないことが明らかである。もとより、右発言における朝鮮人従軍慰安婦についての認識と評価とが根本的に誤っており、前記内閣官房内閣外政審議室の調査報告書や官房長官談話にも反していることは明白であるにしても、また、法務大臣の要職にあり、そのゆえに同時に、本訴における被告代表者たる地位にもある人物の発言としてはその妥当性にかなりの疑問があるにしても、右発言が、その内容自体からして、あるいはこれがなされた状況からして、ある特定の個人を対象としていたり、まして本訴慰安婦原告らを指してなされたりした発言でないことは明らかというべきである。

(三) よって、永野元法務大臣の前記発言は、慰安婦原告らの名誉ないし人格的価値を侵害すると認めるに足りないから、その余の点について判断するまでもなく、同原告らの国家賠償請求には理由がない。

第四  結論

よって、原告らの本訴請求は、慰安婦原告ら(原告甲花子、同乙松子、同丙竹子)が各金三〇万円及びこれに対する不法行為成立の日である平成八年九月一日から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるから認容し、その余の請求部分及び挺身隊原告ら(原告柳賛伊、同朴小得、同朴順福、同李英善、同姜容珠、同鄭水蓮、同粱錦徳)の請求は全部理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法六一条、六四条、六五条を適用して主文のとおり判決する(なお、仮執行宣言は相当でないからこれを付さないこととする。)。

山口地方裁判所下関支部第一部

(裁判長裁判官 近下秀明)

裁判官 森実将人、裁判官 上寺 誠は、転補のため署名押印することができない。

(裁判長裁判官 近下秀明)

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